生活在新加坡

シンガポール在住。会社員です。日々思った事を綴ります。毎月1日+気が向いたら更新予定です。(最近は1、10、20日に更新しています)

日本と英国、教育の違い

公共政策について興味がある人にとってはシンガポールに住む事は楽しいのではと前回書きました。

今日はイギリス大学院留学で感じた、勉強に対する日本とイギリスの違いについて書こうと思います。

 

私はイギリスの大学院で政策系学科の修士を取得しました。
そこで勉強の仕方、講義の進め方がこれまで日本で受けて来た教育と全く違う事に心底驚いて、勉強云々よりその違いの壁を乗り越えるのに血が出るほど苦労した経験があります。

 

ちなみに私の大学での学位は理系科目で、日本で修士を取ったことはないので、理系学部の勉強と文系修士の勉強を比べている事はご了承下さい。

 

社会問題を解決するには、現状分析をして仮説を立て、具体的な解決方法を考え実行に移す必要があります。

大学院の授業では講師と生徒が対等な関係で、講師は現代の社会の仕組みを歴史的な流れや背後の理論のエッセンスを講義で伝えつつ、現状はここまでしか解決されてないからあなた達はどうしますか?と疑問を投げかけます。

 

なので授業は主にディスカッション中心で、講師がかいつまんで話してくれる内容の根拠となる論文は事前に配布され読んでおき、授業では実際に計画し現実的に起こりうる問題についてどう対処するかなどがグループで議論されます。

 

日本での勉強法に慣れていた私は授業に出れば教えてもらえるのだろうという気分でいたので、いきなり授業について行けなくて焦りました。

 

授業に対する根本的な姿勢が全然違う。そして英語は理解できても、外国語として理解しているために議論の論点が自分はいつも他の人とずれた事を言ってしまう。ピントの合わないメガネをかけたような状態での大学院での勉強がスタートしました。予習復習が必須な事は当たり前なだけでなく、予習した内容のピントを合わせるのは結局修士が終わるまでかかり、地を這うような低空飛行の成績でなんとか卒業だけは出来ました。

 

もがいてももがいても泳げない人のように、むちゃくちゃジタバタして終わった留学はしばらく思い出すのも嫌な暗黒時代の思い出となりました。

 

時間が経って振り返ってみると、あれは日本の教育とイギリスの教育の違いだったんじゃないかなと思います。

 

日本では本を読むこと授業に出ること、その内容を理解する事にほとんどの時間が費やされているように思います。

 

でもイギリス大学院での勉強は、本を読んでそれを理解消化する事は当然の事。その上で社会問題を解決するために発案して、方法を考え実行し、社会に与えるインパクトを評価し、修正法や見直しのポイントまで策定して一つのプロセスが終わる。そして継続的にモニターしていく。


授業のたびに「今日は私たちはこれが出来るようになります、そのためにはこのような流れで授業が進みます」と目的がはっきりと提示される。

 

日本でもこの形式のプレゼンテーションは随分増えて来ましたが、学校教育では目的が勉強する事になっていて、ゴールは「ここまで頑張る」みたいな抽象的なぼんやりしたものが多いように思います。

 

日本式で教育を受けて来た私にとっては、大量の参考文献を細部まで読み込む事に労力をかけすぎた結果、計画の策定実行評価まで息切れして辿り着けず尻つぼみ。そんな状態だったんじゃないかと思います。


授業のゴールを理解して、参考文献はざっくりとでも網羅的に読み込み、計画を立てるところから、現実的に起こりうる様々な障害にどう対処するか、一部の人の利益を切り捨てて大衆の利益を上げるのか、どうしても守りたい弱者を守りきり多くの人には負担を増やしてもらうのか、そういった判断にこそエネルギーを使うべきだったと今なら思います。

 

日本で私が受けた教育はあまりにもアウトプットが少なかった。そしてアウトプットした結果返ってくる良い悪いフィードバックをどう受け取って切り返せば良いのか対処法ががわからない。型の練習しかしてない人がいきなり対人の格闘技の試合にでてしまった、そんな感じがしました。

 

日本の教育にも良いところがたくさんあると思います。でも現実社会で役に立つのはどっちのアプローチだろうかと考えると、日常的に剣を交えた模擬試合をしているイギリス式の方に利点はあると思います。

 

学問に営利を求めない事や、お金にならない事ほど高尚な学問だというイメージが日本にはあるような気がします。

勉強をする人が限られていた昔は学問する事が目的になってもそれで良かったのかもしれません。


誰もがその気になれば高度な情報を手に入れることができ、仕事が専門分化された今では、どの情報をどんな方法でなんのために選択し使用するのかが大切になって来ています。


ある程度の基礎のインプットは必要だけど、現在までに蓄積された大量の知識を全て記憶するのは不可能。それよりも情報を選択し咀嚼して何をアウトプットするかの方が大事にな事です。

 

学校教育ではそういった練習の場がもっと必要になってくると思います。